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ミクロ経済学的中学校の選び方:悲観的な人、楽観的な人、そして白黒つけたい人 Column

学生講師の小話

ミクロ経済学的中学校の選び方:悲観的な人、楽観的な人、そして白黒つけたい人

2021.01.08

こんにちは、慶應義塾大学4年のH・Yです。

前回は中学校や塾というものもミクロ経済学でいうところの「くじ」と同じように見ることができるということ。そして、どのように中学校を比較して選ぶことができるのかということを、経済学で登場する「期待効用とリスク選好」の考え方から見てみました。

前回記事:「ミクロ経済学的中学校の選び方:リスクを取りたい人、取りたくない人

しかし、前回述べたように、人間はいつもあるできごとの「期待値」を考えた上で、それぞれのリスクに関して評価して好みを決めているわけではないでしょう。このような「期待効用理論」や「プロスペクト理論」は広く利用されていますが、ミクロ経済学も人間の好みや選択に関して、根本的にはそこまで狭めて考えているわけではありません。では、今回は、起こりうることの中からいつも最悪のケースについて考える人や、物事をグループ分けして考える人の選択の仕方を見てみましょう。

悲観主義者の選び方

これも、くじ引きで考えると理解が簡単かもしれません。ある2つのくじ引きを考えます。まず、1つ目は、それぞれ20%の確率で30、40、50、60、70万円があたるくじびき、そしてもう1つは20%の確率で20万円、80%の確率で80万円があたるくじ引きであるとします。この時、ある人は前者の方を選ぶかもしれません。というのも、これは最低でも30万円が保証されているくじだからです。これも、リスクを嫌う1つのあり方と言うこともできます。

これが中学校であったらどうでしょう。前回と同じく、仕方がないため生徒がその中学校に行った結果達成できる偏差値で中学校を評価してみたいと思います。すると、例えば、それぞれ20%の確率で偏差値30、40、50、60、70を達成できる中学校と、20%の確率で偏差値20になって、80%の確率で偏差値が80になる中学校のどちらをえらぶでしょうか?前回のように期待値の高い方を好む人は、後者を選択するでしょうが、悲観主義者の人だったら違うかもしれません。

悲観的な人は、ありうる結果の中で最も悪い結果同士を比べて、その中で最善のものを選択しているかもしれません。そうだとしたら、最悪でも偏差値30になる前者の中学校を選択するでしょう。その人はとてもリスクが嫌いな人といえるかもしれません。このような選択は実際の世界で見ることができるでしょう。また、これと似た選択の仕方として、ありえる最も良い結果同士を比較することも考えられます。こちらの方はとても楽観主義的な人ということになります。

白黒つけたい人の選び方

また、他の考え方を見てみましょう。もしかしたら、子どもが中学校に入った後に偏差値50以上さえとれればいい成績と考えている人がいるかもしれません。すると、この人は上記の中学校1を、60%でいい成績を達成できる中学校、そして中学校2を80%でいい成績を達成できる中学校と見直すことになります。

そうすると、後者の方が高い確率でいい成績が取れる学校となるため、こちらの方を好むということになります。

実は2番目の「白黒つけたい人」に関しては期待効用という形に還元することが可能なのですが、それでもミクロ経済学自体は人々の好みについて、分析の許容範囲が広いということが感じられたのではないかと思います。

合理的な中学校の選び方?

今回は選択肢の中から何かを選ぶときに好みの順位を付けるパターンについて、期待値以外の例を紹介しました。ここまでの例で通奏低音となっているものがあります。それは、人は一番好ましいものがあったらそれを選ぶということです。実は、これは「個人が自身の好みに従って、「合理的」に何かを選んでいる」ということと同義として扱われるため、ミクロ経済学が分析を行う際の仮定として大事なことの1つなのです。

「通常意識的にすべての選択肢の中からこれがこのような基準で一番好ましいなどと考えて選択することなどない。だから、個人の選択が合理的であると仮定することは無意味である」と言う人があるかもしれません。しかし、個人が選択した結果について調べるときに、何らかの好みの基準でいつも一番好ましいものを選んでいるように見えさえれば、その人がその好みに関して意識的であるかどうかに関わらず、人間の選択を合理的であると仮定して分析を行う正当性が生まれるのです。例えば、読者のみなさんが中学校を選ぶとき、選ばれた中学校が毎回今まで紹介した好みの種類中どれかで一番好ましいものになっているとしたら、みなさんは経済学的に合理的な中学校の選び方をしていると仮定して、ミクロ経済学の分析を行うことができるのです。

しかし、それでもこの「人間の選択が合理的である」という仮定はたくさんの批判にさらされてきました。それは、やはり、人間の選択がどのような基準でも一番いいものを選んでいるように見えないことがあるからではないでしょうか。そのような例と、一見非合理的に見えても、実は合理的であると説明できるものについては次回見てみたいと思います。

それでは。

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H.Y

この記事を書いたのは...

H.Y

パリ政治学院修士1年
ハンドボール、スカッシュ、尺八と
マイナーなものをせめがち。

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